[ 解説 ]
明治24年頃、代官町の一角に二見初右衛門、千度小路通りに山田小兵衛、山田又市の3つの魚市場があったそうです。明治の後半には両山田が合併し小田原魚市場と2つになり、大正11年末にはさらに合併されて株式会社小田原魚市場が誕生しています。
その後、小田原魚市場は昭和43年に完成した早川漁港へ移転しました。
「小田原魚市場」と「両山田魚市場」が掲載されています。
小田原の古き町並みを記録した小暮次郎さんの画集「小田原古きよき頃」に魚市場が描かれています。
今昔物語 2




[ 解説 ]
明治24年頃、代官町の一角に二見初右衛門、千度小路通りに山田小兵衛、山田又市の3つの魚市場があったそうです。明治の後半には両山田が合併し小田原魚市場と2つになり、大正11年末にはさらに合併されて株式会社小田原魚市場が誕生しています。
その後、小田原魚市場は昭和43年に完成した早川漁港へ移転しました。
「魚市場」はひとつになっています。
小田原の古き町並みを記録した小暮次郎さんの画集「小田原古きよき頃」に魚市場が描かれています。
今昔物語 3




[ 解説 ]
小暮次郎著の画集「小田原古きよき頃」に【相模湾に万を数えるー鰤の大漁ー】という記述があります。
~一旦大漁ともなれば、相模湾沿岸は東西にかけて万を数える大漁の日が珍しくなかった。
小田原の定置網は御幸の浜沖の三艘張り(さんぞっばり)にあったもので、そんな時は色とりどりの大漁旗を立てた船が沖合いから千度小路を目指して集まってくる。渚からは何回も艀(はしけ)が出て、まず海岸への水揚げが始まるが、この時、なもとの海は鰤の鮮血で深紅に染まる。魚市場は浜の真上にあるので、女子(おんなし)も混じって二人一組の天秤でエッサエッサの掛け声で引っ切りなしに担ぎ揚げる。~
~このように大漁に恵まれると、網元から漁師に万祝着(まいわぎ)が贈られるが、白または黒色を忌む風習から鮮やかな赤や青色など、強烈な色彩で染め抜いたものが喜ばれ、それが漁師の肌に美しく映えたものだ。
毎年八月一日にはこれを着、揃って大山、成田山、道了尊などにお参りをし、船の安全と併せて大漁を祈願するのが慣わしであった。
今昔物語 4

[ 解説 ]



今年も御幸の浜プールは7月18日(土) ~8月31日(月)まで開場されます。
写真のプールは一代前のプールで、浜の階段の右側にありました。
私は夏休みになるとほぼ毎日通い、このプールで泳ぎをおぼえました。
夏休みラジオ体操ですかね?子供の数がすごいです。
「大松明」懐かしい・・・
残念ながら、もうこんな風景を見ることはないでしょう。
今昔物語 5




[ 解説 ]
すでにお気づきの方もいらっしゃると思いますが、
小田原の海岸には港に適した地形がなく、
漁に出るときは船を浜から押し出し、帰ってくると浜に引き上げていました。千度小路の漁師は昭和43年に早川に漁港ができるまでこれを数百年も続けていたのです。
その早川の漁港(小田原漁港)は昭和20年代後半から工事がはじまり、内陸部を掘下げて造られた珍しい港です。私が子供ころは「築港」という名称で呼ばれていました。
かつて早川の海岸には綺麗な砂浜が続いていました。(一枚目の写真)
昭和43年に完成した港は現在西港の建設が進められ、今後ここには小田原市によって「道の駅」のような観光集客施設も作られるそうです。
最近はすっかり海の中心地は漁港に移ってしまいましたが、かまぼこ通り周辺にはまだまだ「ものづくりの現場」が残っていますので、それらを活かした事業が展開できればと思います。
それにしても今一度、小田原の海岸に人々が集まれるようにしたいですね。
ちなみに小田原の海岸には西から「早川」「新久(荒久)」「御幸の浜」「袖が浜」「山王松原」「網一色」「小八幡」などなどの名称がついています。
今昔物語 6




[ 解説 ]
幕末、イタリア人写真家フェリックス・ベアドが撮影した小田原宿の風景。右手前が欄干橋町の亀屋清五郎の旅籠。
西の筋違橋町方面を写しています。左中ほどに薄っすらと板橋見付光円寺の銀杏の木が見えています。
ほぼ同じ場所、現在の箱根口付近(ういろうさん前)
今昔物語 7



